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☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆「夏至物語」#2☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
夏至物語」
図書室の扉は、いつでも軽い渇いた音を立てて開く。それは例えば、焼きたてのお煎餅を
噛った時の音に似ている。今日は奈良岡友子が一番にお煎餅を噛った。
マディソン・スクエアガーデンのスポーツバッグを長卓の上に放り、ほんの少し陽に焼けた
カーテンを勢いよく引き開ける。六月下旬の空は急いで流れ込んで来て教室に色を戻し、
そして友子は「うん」と深呼吸した。
特別に本好きというわけでもない友子が、図書の仕事を任されるようになったのには理由が
ある。委員選出の時に富川実緒という小学生の頃からの同級生を友子はからかい半分でクラ
ス委員長に推薦した。ところが彼はあっさり当選してしまい、そうなると勿論報復人事とい
うものが待っていて、なり手のいない図書委員に、彼手づからの逆指名を受けた、というわ
けだ。
受付用の机に置いてあった日誌を手に取り、友子はまず昨日の図書室の利用状況を調べてみ
た。返却が三十二人。貸し出しは少し多くて四十人。
「まあまあね」と、うなづいて、ついでに新しい頁に今日の日付を記しておく。
それからいつものように書架に目をやった。どれも学校が開校した当時からあるどっしりと
した木製の本棚だ。いい具合に艶が出ていて友子は好きだった。
蔵書は毎年整理されるけれどこの本棚だけは変わらない。ずっと変わらずにいてほしいと思
う。書架の前に行き優美に摩耗した木肌をぺたぺたと叩いてから、友子は目立って乱雑に並
べられた本をきちんと整えて置き直していった。そうしている内に小さな足音を立てて今日
初めての利用者がやって来た。同じクラスの谷村夏代という友人だった。
「やあやあ、夏代ちゃんじゃないか」
友子が夏代の方へクルリと回れ右をすると、夏代はどういう訳かきまり悪そうな笑顔をみせ
た。
「部活はどうしたの?」
今日は確か彼女が所属する合唱部の練習があるはずだ。
「うん、これから」
「そう。あ、返却だよね」
夏代の手元を見て友子は言った。夏代は緋色の布表紙の本を一冊携えている。
かなり時代の着いた大判の本だ。友子は受付用の机に回って、返却用のスタンプの用意をし
た。
「はい、どうぞ」
「あ、うん」
夏代はまた悪戯を見つけられた子供のように目を泳がせ、
「えっと、今日って友子の当番の日だっけか?」
「ううん。E組の子がクラブの対外試合に出かけちゃったもんだから、ピンチヒッター」
「あ、そうなんだ」
「前にあたしもその子に代わってもらったからね」
「そうなんだ」
たっぷり躊躇した後、夏代はようやく持って来た本を友子に渡した。まだ何か言いたそうに
はしていたが、もうひとりの図書当番である下級生の男子が丁度やって来たので、そのまま
言葉を飲み込んだようだった。
夏代が部屋を出る時に友子は「バイバイ」と声をかけた。夏代も「バイバイ」と返したも
のの、への字になった彼女の眉はハッキリと「弱ったなぁ」と言っていた。
下級生の男子に室内の軽い掃除を頼んでおいてから、友子は夏代が持って来た本を台帳で
チェックした。夏代が借りていたのは夏目漱石の「草枕」である。友子は感心しながら返却
済みのスタンプを台帳に押した。
「はぁ、こーゆーの読むんだ、夏代ちゃんみたいな子は」
正直な感慨だ。友子も少しは本を読むが、大抵が外国のファンタジー小説で、
今は「トムは真夜中の庭で」をいい加減退屈しながら読んでいる。
感心したついでに友子は、台帳を繰って夏代がこれまでに借り出した本を調べてみること
にした。自分にも読めそうな物があったら後で借りてみようと思ったのだ。「草枕」は別と
して。
夏代はほぼ四日に一冊のペースで本を借りていた。「草枕」の前は「たそがれに還る」。
その前は「誰のために愛するか」だった。一方は仏教的無常観に貫かれたSFの傑作。
他方は敬虔なクリスチャンでもある女流作家のベスト・セラーのエッセイである。
両作ともタイトルと書評ぐらいは友子も知っている。
「ふぅん、けっこう乱読なんだな」
頬杖をついて台帳に記入された書名を眺めた。夏代の性格からして系統だてた読書傾向を
想像していただけに少し意外だった。それにしても自分には縁のなさそうな本ばかりではあ
る。
「どらどら?」
友子は次の書名を探した。曽野綾子の前は、
「んん?」
見間違いかと思って、指で書名を押さえてそのまま左にずらす。利用者氏名・谷村夏代。
ふむ、間違いじゃない。
「『落語全集・二』? なんだぁぁ?!」
そんな本がこの部屋にあったことも知らなかったけれど、夏代と落語の取り合わせとはま
たなかなか意表をついてくれる。フルーツパフェの上にさんまの塩焼きを置くようなもんじ
ゃないか、と友子はとんちんかんな連想をした。
ますます興味が湧いて次々と頁を繰る。「針のない時計」、「夜間飛行」、
「黒いカーニバル」、「谷間の百合」、「大地」、「ライ麦畑でつかまえて」
「破戒」、「薮の中」、「クオレ」、「滝口入道」・・・。
ジャンルこそ違えどれも国語教師が泣いて推奨しそうな名作揃いである。
その中にあって「落語全集・二」だけは、どうしたって異質だ。
「ふぅむ、」
谷村夏代の読書歴を辿って、友子は短く唸った。
「何でいきなり『落語全集』なのかなぁ」
さらに作品名を拾って行く。「第七官界彷徨」、「落語全集・一」、「春と修羅」。
(あ、また落語全集だ!)
友子は今度は腕組みをして本格的に唸った。実は隠れ落語ファンなのかぁ、夏代ちゃん。
(待てよぉ、待て待て、これはなにかありそうだぞ。)
台帳に記された本の題名にいよいよ神経が集中する。すると、
「あ、」
友子は急に顔を赤らめ、台帳から目を逸らせた。
「あ、あ、」
それはまるで手こずった数学の問題が、魔術的な閃きを伴って解ける瞬間のように鮮やか
だった。
相互には何の関連もないはずの本の題名。けれどもその文字と文字の間に、
ある単純な法則を適用した途端、突然ひとつの強烈な意思が立ち現われて来たのだった。
そしてそれは友子を大いに慌てさせた。
壊れやすいガラス細工を扱うような手つきで台帳を閉じ、息を整えながら友子は辺り
を伺った。
そんなことをするまでもなく、今この図書室には友子以外にはひとりしかいない。
一年の男子委員は、ポカンとして友子の顔を眺めていた。
「な、なによ、掃除はどうしたのよっ?」
「あ、すみました・・・・」
「じゃ、そのへんの本棚の整理でもしといてよ」
「どのへんですか?」
「そっちもこっちもよっ。早くさっ」
先輩委員の物凄い剣幕に押されて、男子委員は書架の向こうに姿を消した。
それを見届けると、友子は閉じた台帳の表紙にそっと手のひらを重ね、そして心の中
で絶叫した。
(きゃーっっ、カーワイイっ!なんてカワイイの、夏代ちゃんっっ!)と。
教室に戻ると、居残り組がまだいた。原田摘也と富川実緒で、どちらもクラブ活動から
の帰りのようだった。友子は黙ってふたりのそばの机に腰掛けた。
「なんだよ?」と、実緒が眉をしかめる。なるほど友子の行動はかなり唐突で意味あり
気だ。が、(ああ、邪魔よ邪魔。あたしは今とってもいい気分なんだから)と、友子は
素早く実緒をにらみ、それから摘也に視線を移した。
「あのさ、原田くん」
「お、なんだ、告白か?」
実緒がとりあえずといった調子で囃す。
「うるさいわよ、富川」
実緒に決めつけておいてからもう一度、「あのさ、」
摘也は多少面喰らった様子だったが、案外素直に「なに?」と、尋いてきた。
「告白か?」
実緒が更に絡む。友子は実緒に向き直ると、オーケストラの厳格な指揮者さながらに人
差指をツンツンと振った。
「そんっなに告白に興味があるんなら教会にでも行きなさいよ」
「俺ん家、浄土真宗だからな。俺の代で転んじゃ御先祖に申し訳ないだろ」
「へーえ。子供の頃にクリスマス会で、はりきって賛美歌唄ってたあれは、
じゃあ誰?」
「双子の兄貴。あれが元で勘当になったんだ。内緒にしてくれよな」
「はいはいはい、永遠にねっ」
得意げに鼻を鳴らす実緒を呆れたように眺めながら摘也が言った。
「俺、ひょっとして邪魔じゃない?」
結局原田摘也には何も言えずにしまった。
「けれども私は、一体原田くんに何を伝えようとしたのだろうか、伝えたかったのだろうか」
川辺の帰り道をゆっくりと歩きながら友子は考える。
もちろんそれは、絶対に伝えてはいけない事だったはずだ。そんな権利は友子にはない。
なにより谷村夏代のあの思いを代弁する言葉など、当然ながら誰も持ってはいないのだから。
ただ友子は夏代が羨ましかった。抑え切れない思いをあんなにも密やかに、慎ましく、
初露させている夏代が、かわいくてかわいくて仕方なかった。
図書室の台帳から立ち上ってきた秘密。それは実は、谷村夏代の小さな小さな告白だった
のだ。
本の題名の頭の文字をひとつづつひろっていけば、それはそのまま夏代の秘めた思いに代
わるのだった。つい先刻、「俺、邪魔じゃない?」と無邪気な顔で尋ねた少年の名前に。
「破戒」の『は』、「ライ麦畑でつかまえて」の『ら』、「大地」の『だ』・・・・。
しかし「ら」の文字から始まる本は案外に少なく、すぐに図書室の蔵書は尽きてしまった。
そこで仕方なく興味もない「落語全集」を借り出していた、ということなのだろう。
友子は軽くまぶたを閉じた。まぶたを閉じたまま少し歩いた。まぶたを閉じたままでも家
までちゃんと帰りつけるような気がした。それほど友子を統べる何かは今、純化していそう
だった。
知ってる?原田くん。夏代ちゃんはね、あんたの事がとっても好きなんだよ。
喉が乾いたら手のひらにお水をすくって飲むように、あんたの事が好きなんだよ。でもね、
夏代ちゃんの手のひらは小さいから、指の隙間からどうしても滴がこぼれちゃうんだ。
そのこぼれた滴はね、きらきらしていて奇麗だったよ。
原田くん、見たらきっと感激するよ?
鞄をギュッと握り直し、友子は顎を上げて夕暮れの空を見た。遠く山の端まで細長い雲が、
赤く染まって連なっていた。まぶしく消え残る太陽のぬくもりは、友子の横顔に優しいキス
をくれるようで、周囲に誰もいないことを確認すると、友子はぎこちなくぎこちなく唇を尖
らせてみた。そして「ゴホン!」と大きな咳をした。
なぜだかふいに、富川のバカの顔が思い浮かんできたので。
(了)
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