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夏至物語♯4
盛夏物語
隣町の中学との久しぶりの対抗試合は、すでに七回表まで進んでいる。何の
試合かと言えばもちろん野球の試合で、新田雄星たちの野球部は去年から一勝
三敗と負け越していた。夏休みに行われる県大会の前哨戦でもある今回の試合
は、だからどうしても落とすわけにはいかない。特に雄星は二年生でただひと
りレギュラーに抜擢されたばかりで、スタメン落ちした先輩部員たちの手前も
あり絶対に結果を出さねばならないと意気込んでいた。
ここまで0対0。けれども味方打線は確実に相手のピッチャーを捕えだして
いる。守り切れば勝てる試合だ。その為の練習なら十分にやった。だから雄星
は自信を持って守備に臨んでいた。
乾いた打音がグラウンドに響く。雄星の守備位置にボールが飛んで来た。
球足は鋭く早いが真正面のセカンドゴロだ。
(よしっ、ゲッツーいただきっ)
雄星はボールを引き込むようにグッと腰を落とした。
「だめよ、おにいちゃん」
縁側から妹の美月の声がして、雄星は我に返った。
泥だらけのユニフォームで帰宅し、縁側からそのまま茶の間に上がろうとし
て、ちょうど食卓を用意をしているところだった美月に見咎められてしまったのだ。
「だめよ、おにいちゃん。先にお風呂に入ってきな」
「いいだろ、別に。腹へってんだよ」
「だめ。畳が汚れちゃうじゃないか」
ああ、なんて厄介なのだろう。
昔から雄星や父親に対して何かとお節介を焼きたがる妹だったが、最近はそ
れが頻繁且つ少々過干渉気味になってきた。
(父さんはまだいいよ。俺なんて、来年うちの中学に入って来られちゃうんだもんなぁ)
友人の原田摘也などは妹がいることを本気で羨ましがるのだが、そんなのは
実際に妹を持ったことがないからだ。なんなら暫く美月を貸し出してやっても
いい。小型の母親がいかに煩いものかすぐに分かるだろう。中二にもなるのに
まだ異性を好きになったことのないのは、半ば以上は妹という物を持ったせい
だとまで雄星は思っている。
そんな兄に、妹はそしらぬ顔で茶碗など並べながら、
「ちゃんと頭も洗いなよ?」
と、留めを刺すのを忘れないのだった。
(ああ、女ってなんて厄介なのだろう)
心の中で小さく毒づきながら、雄星はのろのろと風呂場のある裏庭に向かった。
たっぷりした湯につかると、張り切った筋肉がゆっくりと弛緩してゆく。
「胎内にいるようだ」と、その記憶もないのにいつも思う。記憶はなくとも、
きっと身体がその感覚を覚えているのだろう。
「極楽、極楽」
祖父の口調を真似て雄星は言ってみる。母親の胎内こそは、まさに極楽だっ
たのかもしれない。
両手で湯をすくって顔を撫で、湯壷の上にある明かり取りの小さな窓を開けた。
格子の向こうに真っ直に伸びた竹の林が見える。耳を澄ませば、近くを流れ
る疎水のせせらぐ音もかすかに聞こえる。
窓に切り取られた夏の宵を眺めながら、雄星は「ほぅ」と、浅いためいきを
ついた。すると、ふいに窓の外が明るく煙った。それは淡いだいだい色の光が
パッとはぜたような感じで、すぐまた元の暗さに戻った。美月が花火でもはじ
めたのだろうかと思い、雄星は声をかけた。
「お兄ちゃんにも、ちょっと残しといてくれよな」
しかし返事はなかった。
「美月、」
少し大きめの声でもう一度呼ぶ。
「おい」
やはり返事はない。あたりはひっそりとしたものだ。当の美月が見ているら
しいテレビ番組の主題歌だけが茶の間から漏れ聞こえている。多分「つぶやき
岩の秘密」だろう。雄星は濡れた体をバスタオルでサッと拭き、ランニング
シャツとショーツだけを着けて、風呂場から渡り廊下に出た。
十坪ほどの裏庭には、山査子の植え込みのこんもりとした陰が連なり、背の
低いいちじくの木のそばでは今でも使っているポンプ式の井戸が、残り陽に照
らされて鈍く光っていた。そして、その井戸の前に少女がひとり、半身をこち
らに向けて立っていた。
(えっ?)
見間違いではない、確かに立っている。首を左右に巡らし、しきりに辺りを
眺めながら、何だかひどく途方に暮れている様子だ。
(誰だ?)
ごくりと唾をのみ、舌の先で一度唇を湿らせてから、慎重に声をかけた。
「あの、」
少女の肩が跳ね上がった。全身で「ひっ」と叫んだような調子だ。そして
素早くこちらを振り返った。
やっぱり雄星には見覚えのない顔だ。
「あの、」
繰り返し尋ねかけると、少女は「・・・・へい」と小さな声で答えた。愛らしい声だった。
「あの、ですね」
「・・・・へい」
「きみ、誰?」
とりあえず、当然の疑問であると思う。
少女は「あ、」という顔になり、あわてて腰を屈めた。それから、「卒爾な
がら、こちら様に新田雄星様とおっしゃるお方がおいでになると、左様承って
参じました」、と言った。「卒爾ながら」とは、「突然で軽率なことではござ
いますが」と言う意味の古典的な謙譲語だ。
「新田は、オレだけど・・・・」
どぎまぎしながら雄星が答えると、少女はますます深く腰を折り、
「ご免下さりませ、お初にお目文字申し上げます。妾、護国社門前町にござい
ます小間物問屋『万寿屋』に奉公いたします者で、名をふよと申します。かよ
う俄に参じまして、まことに無躾なことでござりますが、新田様にはご容赦
あって、どうぞお見知り置き願わしゅう存じます」
滑らかに、一息に少女はそう述べた。雄星にはさっぱり分からない言葉だらけだった。
(な、なんだぁ、こいつ?!)
ただただ呆然と、ふよと名乗ったその少女を見つめた。
年は、雄星たちと同じぐらいだろう。浴衣を着ていた。地味な格子柄の、随分
着古した物のようだ。髪も小ぶりな日本髪に結ってはいるのだが、油気がなく
あちこちほつれて今にも型崩れしそうになっている。
色黒で、小柄で、野草のような奇麗な少女だった。丸い額にうっすらと産毛
が残っていた。眉は優しい曲線で、くっきりした二重の瞳の、左の涙袋の上に
ひとつほくろがあった。
遠慮がちに顔を伏せるふよに雄星はドキドキし、そんな自分に戸惑いながら、
「で、何か、用?」
と、再び尋ねた。
ふよはますます肩をすくめて小さくなり、顔を伏せたまま、
「・・・・へい。あの、」
「うん」
「・・・・へい」
「うん」
「・・・・あの、あたし、なんだか知らないんだけど、新田様にお会いするように
って、あの、そう言われてですね・・・・、」
ふよは、今しがたの見事な口上とは大違いのたどたどしい言葉を、それでも
一生懸命に口にした。
「・・・・あの、言われてそれで、あたし、参じましたんです、へい」
「オレに?」
「へい、」
「オレに会うように、って、それは誰がそう言ったの?」
「へい、あの、」
ふよはどうしようかと思案するのか、しばらく奇麗な顔を曇らせていたが、
「あの・・・・、えらくハイカラな、西洋式の服をお召しでいらっしゃるんです
が、」と、そこで言葉を切り、それから本当に思いきったという口調で、
「おたいしさまじゃないですかね?」
「はいっ?」
「あたし、そう思うんです」
(何だ、そりゃ?)
あまりのわけの分からなさに雄星は、「へー・・・・」と、間の抜けた相槌を打つしかない。
ふよは、一層おろおろと目を泳がせたかと思うと、
「あの・・・・そんなら、あたし失礼いたします。お喧し様でございました」
急いでひょこんとひとつお辞儀をし、身を翻した。
「あ、あの、ちょっと!」
慌てて声をかけた時には、もうふよの姿は夕闇に溶けていた。
消えた、ように雄星には思えた。
「おたいしさまってのは、弘法大師のことだろう?」
と、雑学に強い原田摘也がペンチで針金を切りながら言った。
「弘法大師って?」
と、奈良岡友子は絵の具を水で溶く。
「空海に決まってるだろ」
摘也に代わって答えたのは富川実雄だ。
「ふぅん・・・・」
「あ、分かってないぜ、こいつ」
「余計なお世話よっ」
夏休みのがらんとした公民館である。子供会活動の為に雄星は、何日かぶり
に友人たちと集っていた。お盆の夜に川に流す紙灯篭を、地域の子供たちの分
だけ雄星ら中学生が作ってあげるのだ。作りながら雄星が昨夕のおかしな訪問
者のことを話して聞かせると、それはたちまち友人たちの関心の的になった。
「それにしても、誰なんだろう、その子。新田君、見覚えなかったんでしょう?」
谷村夏代が分厚い和紙を円柱に丸めながら尋ねる。
「ないない。あるわけないだろ、浴衣に日本髪だぜ?」
「踊りの稽古かなんかの帰りだった、とか」
「うーん・・・」
雄星は言葉を濁したが、胸の内では(いや、そんなんじゃないんだ)と、
明確に答えていた。
「で、かわいかったのか、その子?」
「またぁ、富川はっ。そうゆう問題じゃないでしょ?」
「一番大事な問題じゃん、なあ摘也」
「さあ。けど、かわいかったんじゃないの? 雄星、そういう顔してるもの」
摘也がからかうように見ると、雄星はがりがりと頭を掻きながらそっぽを向いた。
(だからそんなんじゃないって。・・・・しかしそれにしても弘法大師とはなあ)
「大丈夫? 新田君」
夏代が心配そうに尋ねてくる。
「雄星の口から、まさか女の子の話しが聞けるとは・・・・」
と、友子も興味深そうに言い、色彩筆を持った手で机に頬杖をつく。
「だから、違うってばよ」
「そうだぞ。こいつは野球バカなんだからな」
実雄がボンと雄星の肩を叩く。
「野球バカに付き合える女子なんかいるかって。なっ、雄星」
「うるせーよ」
「なんだよ、庇ってやったんだろ?」
「どこが庇ってんだ、バーカ」
「なんとなく庇ったふうだったろうが、バーカ」
小突き合う雄星と実雄を交互に見比べて、「どっちもバカだ」と、摘也が笑った。
「でもさ、もしまたその女の子に会ったら、色々聞いてみなよ。おもしろそうじゃん」
雄星は気が進まなかったが、
「・・・・もしまた会ったら、な」
と、返事をした。その『またの機会』が、すぐさまやって来るとは思っても
いなかったので。
護国神社の境内を抜けるのが、雄星の家への一番の近道である。途中の道で
摘也たちと別れ、雄星はいつものように一人で広い境内を急ぐことなく歩い
た。絵馬堂の近くに六百年を越す樹齢の楠が立っていて、今日も濃い木下闇を
造っている。その楠は神木というわけではなかったけれど、畏まらずにはいら
れない大樹で、だから雄星はその前を通る時、自然と心の中で会釈をしていた。
「こんちわ」「こんばんわ」「今度の試合はがんばります」・・・・。
今日も「ただいま」と会釈しながら通り過ぎようとして、ピタリと足を停め
た。絵馬堂の階段にあの少女、ふよが腰掛けているのに気づいたからだ。
「ねえ!」
思わず雄星はその場から呼びかけた。ふよの方でも雄星を見留めていたよう
で、すぐに腰を上げるとぺこりとお辞儀をした。
「何してんの、そんな所で?」
「別に、何も・・・・」
「気分でも悪い?」
「いえ・・・・、あの、夕べっからここに泊まってるもんで・・・・、へい」
「え?」
雄星はぽかんと口を開けた。
絵馬堂に泊まった? ・・・・嘘だろ、女の子がひとりでかよ?
そんな真似はあまり物怖じしない質の富川実雄にだってきっと出来ないに違
いないのに。それをこんなにチビで痩せていて、それから・・・・可愛い女の子が?
雄星はまじまじとふよを眺めた。
「あの、さ。昨日、オレん家に来ただろ。あれ、何の用だったのかな?」
「へい・・・・」
そう返事して、ふよはまたうつむいた。そしてそのままじっと考え込む様子になった。
いいさ。ゆっくり考えてよ。
雄星はふよが話す気になるまで黙って待っていようと思ったので、辛抱強くそうしていた。
10分経ち、20分経った。
「あの・・・・、あたしの話し、聞いてもらえますか?」
ふよがやっとそう言い出した時には、辺りは微かに夕暮れの気配を帯び始めていた。
「うん、もちろん聞くよ」
うなずく雄星に安心したのか、ふよはほっと肩の力を抜き、そしてぽつりぽ
つりと話しはじめた。
あたしは梅乃郷の小作の娘なんですけど、九つの年に二親と死に別れまし
た。二人とも流行りの風邪をこじらせたんです。あっという間でした。
その時は、子供はあたしひとりだったんだけども、頼る所はないし、村役さ
んが「娘っ子ひとりぐらいのことなら」と周旋してくだすって今のお店に奉公
に上げてもらったんです。『万寿屋』さんにです。丸五年お世話になりました。
ところが、この春先に今度はあたしが流行りの風邪を貰っちまったんです。
なんでもないと思って養生しなかったのがいけなくって、とうとう患いつい
ちまうようなことになりました。それで、あたしには引き取る宿元はないし、
裏庭の使ってない物置蔵で、しばらく養生させてもらってたんです。
お店の御一同さんには、さぞご迷惑なことでしたろうと思います。それだけ
があたし、今でも心苦しくてならないんだけど、それでも、十日もたたないう
ちに、いけないようなことになっちまいましたから。
相槌も打たずに話を聞いていた雄星の顔は、すっかりこわばっていた。
「ちょっと待って。いけないような・・・・こと?」
「へい」
「いけないようなこと、ってのは?」
「死んじまったんです」
「・・・・え?」
「これでやっとお父ちゃんやお母ちゃん、それに、おようちゃん・・・・二つの時
に死んだあたしの妹なんですけど、おようちゃんにも会えるって思ったら、
ふっと身体が楽になって。それだのに、なんでこんなに暗いんだろう、暗くっ
て静かなんだろう、そう思ったきりだったです・・・・」
落ち着け、落ち着けといくら言い聞かせても背筋や脇の下を冷たい物が撫で
て行く。もう間違いない。雄星は意を決して質問する。
「ふよちゃん、・・・・生まれたの、いつ?」
「へい、あたしは辛未(かのと・ひつじ)です」
「・・・・かのと、ひつじって?」
「四年ですけど」
「・・・・いつの?」
この人は何を当り前のことを聞くんだろうと、ふよが小首をかしげる。
「そりゃあ御維新からこっちですから、明治の四年です」
雄星は手の平をペタンと額に当てた。そうしたところで混乱する頭が静まる
わけのないことは分かっているのだが。ふよのために上辺だけでも取り繕おう
と、出来るだけ静かに「話し、続けて」と促した。
「へい」
ふよが再び話し始めた。
「しばらくしたら、あたし、お浄土にいたんです」
そこは、やわらかい靄と光の世界だったと言う。いつの間にかその中を、
ふよは歩いていたのだそうだ。不安もさみしさもない、どちらかと言えば朗らかな心持ちで。
ふと前の方に、ふよの言う『ハイカラな西洋の服』を着た人が立っているの
が見えた。近づいて行くとその人は、とても上品で威厳があり、そしてこの上
なく慈愛に満ちた目をした初老の男の人だった。
男の人は「ふよさんだね」と優しくふよを呼んだ。「へい」と答えると、男
の人はふよを促して歩き出した。
「あの・・・・ここは?」
「ここかね。ここはそうだね、極楽浄土に通じる、まあ『控えの間』だとでも
思えばそう間違ってはいないだろう」
「お浄土へよせてもらえるんですか?」
ふよは驚き、叫ぶようにそう尋ねた。犬猫同然に生きてきた自分のような
奉公人が、お浄土に行けるなどとはとても信じ難いことだったから。だが男の
人は、「もちろんだよ」と事もなげに言う。
「あたしらみたいな者が・・・・」
ふよは胸がいっぱいになり、そしてハッとある事に思い至った。すぐにその
場に両膝を着き、手を合わせて深々と頭を垂れた。
「お大師様・・・・もしやお大師様ではござりませんか?」
「・・・・とは、空海上人のことかね」
震えながら手を合わせるふよに、男の人は微笑しながら「すまないね、私で
はないよ」と首をふった。
「古くからの付き合いだがね、上人とは」
そんなことはない、きっとお大師様に違いないと、ふよは懸命に拝む事を止
めない。すると別の、女の人の声が後ろから呼びかけて来た。
「おふよ?」
ふよの動きが止まった。
「おふよだろ?」
懐かしい声だった。もう一度だけでも聞きたいと、ずっと夢見て来た、それ
は声だったのだ。
振り向くと、野良着姿の若い男女が立っていた。男の方は二歳ぐらいの女の
子をおぶっている。二人とも目にいっぱい涙を溜め、詫びるように、いたわる
ように、そして何よりも愛しげにふよを見つめていた。
女の人がもう一度「おふよ、」と名前を呼んだ。
「お母ちゃん・・・・」
ふよの整った顔がくしゃくしゃに崩れ、赤ん坊さながらの手放しの泣き声が
ほとばしった。
「お母ちゃん!」
大声で泣きながら、ふよは母親の胸に飛び込んでいった。
どっしりとした執務机に着いたお大師様(何と言われようとふよはそう信じ
て疑わない)の前で膝を折り、相変わらずふよは厳かに手を合わせる。両親と
妹に再び会えた僥倖から、下界の時間で一年が過ぎようとしていた。
お大師様も相変わらずの微苦笑でふよを眺め、ふと、
「ああ、そうそう、ふよさんは、お盆はどうするつもりかね」
「は?」と、虚をつかれてふよは顔を上げた。
「お盆、でございますか?」
「うむ。美風だね、あれは。常々感じ入っていたんだよ。大抵の者は供養をし
てもらう為に向こうの世へ戻るようだが。殊にふよさんにとっては、初盆とや
らにあたるわけだから」
「あたしは、どなたさんに供養してもらえる訳でもないですし・・・・親も妹もこ
ちらにおいてもらっておりますから」
お大師様は軽く「うむ」と言ってから、宙で分厚い本のページを繰るような
手つきをした。それから中空に目を据えて、「なるほど、そうか」とうなずいた。
「向こうの世に、新田雄星という少年がいるんだが」
「へい」
「向こうでは、やがて明治の世が終わり、大正という時代になる。次に、昭和。
その、昭和と呼ばれる時代の少年なんだがね」
「へい」
「その人に供養してもらえばどうだろう」
どうだろうと言われても、大正だの昭和だの、ふよには何の事だか分からな
い。それに新田という少年、少年というのは若い衆のことらしいが、見ず知ら
ずの若い衆に供養して貰えと、お大師様はおっしゃるのだろうか。
ふよはすっかり困ってしまった。けれどもお大師様のお託けに間違いのあろ
うはずはないし、第一逆らうなどとは滅相もないことだ。お託け通りにお盆に
は、向こうの世に戻ることにしたのだった。
「けど、どうしていいんだか、本当にあたし分からないんです・・・・」
そう締めくくって、ふよはようやく長い話しを終えた。
遠くの社務所にはもう電気が灯っていた。
楠の木陰で一層暗い絵馬堂の階段に座り、雄星は言葉を探した。とても信じ
られない話しだったが、疑う気はない。この子は絶対に嘘は言っていないと
雄星は強く思う。だから、自分のかたわらにぼんやりと立っているこの女の子
に、何かかけてあげる言葉を探したのだ。
けれどもどうやらそんな言葉はなさそうだった。小器用な慰めは、話しの
途中で地面に叩きつけて捨てていた。
雄星はふよを待たせておいて(そうでなくともこの子に行く所はないのだ)
社務所の脇に走り、自動販売機で瓶詰のジュースを二本買って戻って来た。
「飲みな」
一本をふよの手に渡し、もう一本をからからに乾いた自分の喉に流し込む。
ふよがその様子を不思議そうに見ていた。
「うまいよ」
「・・・・へい」
そう言いながらも、ふよは渡された瓶を両手に持ったまま口元に運ぼうとはしない。
そうだろう、こんな物、この子は見たこともなかったろうからな。けど、
「飲みなよ、ほんとにうまいんだ、これ」
頼むからそうしてくれよ、だってオレに今出来るのはこれぐらいのことなん
だ。雄星は心から願った。それが通じたのか、ふよがおそるおそる口元に瓶を
近づけた。励ますように雄星は自分も一口飲んでみせる。ふよもギュッと目を
閉じて、思い切ったように一気に流し込んだ。そしてすぐにキョトンとした顔
で瓶を見つめ、「・・・・おいしい」と嘆息した。
雄星は嬉しくなって笑い声を上げた。つられてふよも、初めて恥ずかしそう
な笑顔を見せた。その笑顔を見ていると、雄星はキリキリと胸が痛み、それは
何とも甘酸っぱい痛みで、ずっとそうして二人で笑っていたいような気持ちがした。
「雄星?」
ふいに誰かが名前を呼んだ。
「雄星だろう?」
ハッと声のした参道の方を振り向くと、雄星の父親があきれ顔でこちらを見
ていた。会社からの帰りらしく、鞄を持ち背広の上着を腕に引っかけている。
「お前、何をひとりで笑ってるんだ、そんな所で?」
「え?」
すぐそばにいるはずのふよを雄星は見た。けれどもそこには、暗がりの他に
は何の姿もなかった。ただ階段にジュースの入った瓶が置いてあるだけだ。
ジュースは1mmも減ってはいなかった。
茫然とする雄星に父親は、
「どうした、幽霊でも見たような顔して」
と、気づかわしげに言った。
(そうだよ、)
ジュースの瓶を、雄星は指先で小さくはじいた。
(そうだよ、父さん・・・・。オレね、幽霊と一緒に笑ってたんだ)
その瓶にも雄星にも、耳鳴りのするほど静かな夜が、等しくゆっくりと降り
ようとしていた。
なかなか眠れずに、雄星は布団の中で何度も寝返りをうつ。その度にふよの
顔が浮かんで来た。枕元の目覚まし時計を見ると、もう午前一時だ。
(眠れないなら眠れないでいいや、どうせ夏休みだし、部の練習だって始まる
のは午後からだ)
雄星はそう考えると布団の上に半身を起こした。それから蚊帳越しに、開け
放した障子戸の外の庭を眺めた。もしかしたらふよが来てはいないかと思ったからだ。
ふよはいなかった。その代わりに男の人がひとり立っていた。
月明りと星明りの下で、はっきりとは見てとれないが間違いない。初老の、
きちんとスーツを着た男の人だ。雄星は怖さも忘れ、蚊帳をめくると縁側に飛び出した。
「新田雄星君だね」
男の人はバリトン歌手のように豊かな声で雄星に呼びかけた。
「少し話をしたいんだが、構わないかな」
「あの・・・・おじさんは?」
「私かね。さあしかし何と説明したものか、これがなかなか難しくてね。ふよ
さんからはすっかり空海上人だと思われているようなんだが、」
やっぱり、と雄星は息を飲んだ。
男の人は生成の麻の上等そうな上下を着て髪を奇麗に撫でつけ、おまけに
銀縁の眼鏡までしている。だが、人とは思えない威厳があった。それはあの
神社の楠に感じる威厳に似て、さらに大きな威厳なのだ。
「近しい者だと、思ってくれればいい」
「はい・・・・」
と、雄星はうなずいた。
「でも、分からないことだらけです」
「そうだろう」
「どうしてふよちゃんを、オレ・・・・僕の所に来させたんですか?」
「そうだね、その事だ、」
男の人は「失礼するよ」と縁側に腰かけて、雄星にもそうするように手で
示した。そして雄星が隣に座るのを待って言葉を続けた。
「要点だけを話すから、しっかりと聞いてもらいたい」
「はい」
「つまりね、ふよさんと君の間には、ひとつの約束が存在するのだ。それは
君たちが生まれる遥か以前に紡がれた物でね。君は、赤い糸の話は知ってい
るだろうか?」
「はい、何となくなら・・・・」
クラスの女子達が話しているのを聞いたことがある。恋人という物は、生ま
れる前から目に見えない糸で結ばれているのだという、確か元々は中国に伝わ
る伝説だったはずだ。
「そう。そういった事だよ。だが実際を言えば、誰でも彼でもが約束されてい
るわけではないのだ。『生まれる前』とは、君たちの地球がまだ星間物質の無
数の集りとして、ガスのように太陽の磁域に漂っていた頃にまで遡るのだから。
その約束もまた空疎な確率でしか紡がれない。君とふよさんとが約束されたの
はね、実に天文学的な事象なのだよ」
「けど、ふよちゃんは、」
地球生誕の話しや天文学が何だと言うのだ。『生まれる前』は、何億年前だ
ろうが何日前だろうが、オレにとっては『生まれる前』だ。
(そしてふよちゃんは、オレが『生まれる前』にすでに死んでしまった人じゃ
ないか)と、雄星が異を唱えると、男の人はうなずいた。
「時代を違えて生まれた君たちが、出会うことなどありえない。決してね」
「なら約束もクソもないじゃんか!」
思わず激しい声が出た。
男の人はそんな雄星を諭すように静かに続ける。
「出会えないことをも内包して、約束は存在するのだよ」
「滅茶苦茶だ、そんなの・・・・。だって、じゃあオレ、どうしたらいいんだよ?」
「ふよさんを供養してあげなさい。心から。私はそれを言いに来た」
と、男の人は縁側から腰を上げた。雄星はうなだれたまま繰り返す。
「・・・・滅茶苦茶だよ、そんなの」
男の人も繰り返した。
「ふよさんは大川のほとりで待っている。供養してあげなさい。今はね」
「・・・・今は?」
ハッとして目だけで姿を追ったが、男の人はもうそこにいなかった。どこからか、
「約束はなくなることはない。即ち自在であり、永劫である」と、声だけが深く響いた。
雄星は頭をかかえてしばらく動けずにいたが、やがてのろのろと立ち上がる
と部屋に戻った。そして机の上に置いてあった紙灯篭を手に取った。
夏の夜はいよいよ深く、月が空の高みからその様子を無関心に照らしていた。
瀬の浅い穏やかな川をふよが眺めている。
雄星は紙灯篭を手に近づいた。すぐそばまで行くと、しゃがんでいたふよは
雄星を見上げ、黙って会釈した。微笑んでいた。
雄星もふよの隣にしゃがみ、持って来た紙灯篭を差し出してみせた。
「オレが作ったんだ」
それはいかにも子供じみた彩色の施してある代物だったのだが、
「へえ、お上手なんですね」と、ふよは感嘆した。そして和紙の表面を目で示し、
「これは? 何と書いてあるんでしょうか?」
出かけて来る時に、マジックインキで書き加えた文字である。
「『ふよ』、って」
「ああ、あたしの名前なんですね」
ふよは嬉しそうに笑った。
「自分の名前ぐらい書けるようになりたいって、ずっと思ってたんです」
そう言って、その二文字の平仮名の上を指でなぞった。何度もなぞった。
雄星の胸は、つぶれそうにいっぱいになったが、ギリギリと奥歯を噛んでそ
れに耐えた。そして無理やりに笑みながら、灯篭の中のろうそくにマッチで火
を灯した。それが黄水仙のように柔らかく光り始めるのを待って静かに川面に
浮かべると、しばらくふたりで漆黒の水に見入った。
「お経とか、あげた方がいいのかな」
「いいえ。もうこれで充分です、へい」
ゆらゆらと漂って行く光りを、ふよは満足気に眺める。河骨の銀の穂が、風
になびいて微かな音を立てる中、雄星はふよの横顔に祈った。
(この子を安らかに。どうか、お願いします)と。
やがてふよは、「ありがとうございました」と言って立ち上がった。
「これで向こうへ帰れます」
「うん・・・・」
雄星もふよと向かい合って立った。
「もう、行っちゃう?」
「へい」
「そうか」
目尻が燃えそうに熱い。耐えられなくはないけれど、もう耐えたくはなかっ
た。だから雄星は言った。
「あのさ、ふよちゃん・・・・、」
「へい」
「ギュッって、していい?」
ふよは意味が分からずに、雄星の目を見て首をかしげた。雄星はかまわず、
ふよの腕の上から自分の腕を回した。抱擁と言うにはあまりにぎこちなかった
が、それは時間を凍結するに値する、美しい形だった。
「さよなら」
と、雄星は言い、腕に力を込めた。
ふよも抱きすくめられるままに、雄星の肩に「へい・・・・。さようなら」と、つぶやいた。
千億の星が、いっぺんに落ちてきそうに空が揺れた。そしてふよは、そのま
ま静かに消えていった。
両腕と胸が、ぬくもりだけを残して空っぽになった。
雄星の幼さは、それをどうする術もまだ知らない。ただ川面をたゆたって行
く紙灯篭から顔を背け、土手を駈け登り、そのまま来た道をひた走った。すると
涙がどんどん湧いて来た。喉の奥から「ひぃひぃ」と、破れた笛のような音が
漏れ続けた。けれども雄星は、何にはばかることなく泣きじゃくりながら、
しんと張り詰めた夜の真ん中に、たった今消えてしまった女の子の名を、大声
で叫んでいた。
気がつくと、友人の顔がすぐそばにあった。
「摘也・・・・?」
「あ、起きたか」
「お前・・・・何してんの?」
「なんだ、覚えてねえのかぁ?」
あきれたように摘也が言った。
「お前、ボールを受けそこねて、ここんところにぶつけてさ、」
と、雄星の目と目の間を指でつつきながら、
「倒れたんだぜ?」
「倒れた・・・・」
ようやくと雄星の脳裏に、疼痛のように記憶が蘇った。
ええっと、隣町の花萩中との前哨戦だった。回は、七回・・・・、七回表。スコ
アは0対0だ。で、オレは・・・・、オレは、そうだ、飛んで来たセカンドゴロを
捕ろうとしたんだ。捕ろうとして、・・・・で、気を失った。
「ここ、保険室。分かるか?」
雄星はうなづいてみせた。相手中学の保険室なのだろう、雰囲気や置いてあ
る物は似かよっていても、そこは馴染みのない部屋だった。
「お前、試合、見に来てくれてたんだ」
「まあな」
雄星は、まだぼんやりとした頭で、気掛かりなことを尋ねた。
「どうなった?」
「うん、終わった。あのまま引き分けだ」
摘也があっさりと答えた。
「そうか・・・・」
雄星が上半身を起こそうとするのを手伝いながら、摘也は可笑しそうに続ける。
「お前、寝ながら泣いてたなぁ」
「泣いてた?」
「うん。どんな夢見てたんだ?」
「どんなって・・・・」
雄星はちょっと思念を凝らしてみて、すぐに諦めた。これっぽっちも覚えて
いない。ただ、ひどく悲しいような気分が体のあちこちにぶらさがっているだ
けだ。それを言うと摘也は、「ふうん」と首をひねった。
「お前が泣くのなんて小学校以来だからさ、ちょっと聞いてみたかったんだ。
気にすんな。それより、相手チームのマネージャーに礼を言っといた方がいいぜ」
「マネージャー?」
「先刻までずっとついててくれたんだから」
「そうか」
「悪いことばかりでもなかったじゃんか」
どういう意味だよ?と問いかける雄星に、しかし摘也は笑うだけで答えなか
った。そして、雄星が目を覚ましたことを引率の先生に伝えて来ると言って出て行った。
しばらくして保険室に顔を見せたのは、雄星の知らない少女だった。若草色
のジャージの上下を着ていて、片手に小さなやかんを下げて入って来た。雄星
を見ると、ホッとしたようにすべすべした頬を緩ませて、
「よかった。お友達の方が教えてくれたんです、気がついたって。具合どうですか?」
「もうなんともないです」
「そう」
少女は整理棚から湯のみ茶碗を取り出して、持って来たやかんからお茶を注いだ。
「喉、乾いてるんじゃないかと思って。番茶だけど、うんと冷やしてあるから」
雄星は茶碗を貰って一息に飲んだ。飲みなれた番茶の味だったが、なぜだか
驚くほど旨く感じられた。
少女が「もう一杯?」とやかんを胸のあたりに掲げ、雄星は「お願いします」
と茶碗を差し出した。
「あの、きみは花荻のマネージャーの人ですか?」
「はい、そうです」
少女が着ているジャージの胸には、花荻中学の校章が白貫きで印刷されてい
て、その下に油性ペンで「2−5・望月」と書いてあった。
「ついててくれたんですよね。礼を言っとけって、摘也が。摘也ってのは友達
の名前です」
雄星が照れ臭そうに鼻を擦ると、少女はニッと笑いながら答えた。
「そうですか。じゃあそうして貰おうかな」
「え?」
「お礼。だって本当に心配したんですから」
雄星は「ああ、」とベッドにきちんと膝を揃えて座り直し、「どうもありが
とうございました」と頭を下げた。
「どういたしまして」
と、少女も頭を下げた。少女の声は、例えば林檎のサイダーのようだと雄星
は思った。すると途端に、馬鹿みたいに甘い感触が、ストンと心臓に落ちて来
たので、慌ててまた番茶を飲み干した。
束の間、雄星を不思議そうに見ていた少女は、すぐに、
「来週の大会予選で、また当たりますね。今度は勝たせてもらいますからね」
と屈託なく言った。
「こっちこそ」と雄星も答え、そして、「あの、オレ、新田。新田雄星」と、
名乗った。名乗ってから急に恥ずかしくなったが、少女はやっぱり屈託なく、
「あたし、望月です」と、名乗り返してくれた。
「望月芙蓉。おばあちゃんみたいな名前でしょ」
そう言って笑った。
望月芙蓉は、色黒で、小柄で、野草のような奇麗な少女だった。丸い額にうっ
すらと産毛が残っていた。眉は優しい曲線で、くっきりした二重の瞳の、左の
涙袋の上にひとつほくろがあった。
快活そうに自分を見つめる芙蓉に雄星はドキドキし、そんな自分に戸惑いながら、
「あの、よろしく、望月さん」
と、そう言った。
言ってからまた茶碗に手をのばしたら、茶碗の中にはもう番茶は残っていなかった。
芙蓉が三杯目を注いでくれながら応えた。日焼けした顔に、真っ白な歯をこ
ぼれさせて。何かの始まりを、心地よく知らせる風のように軽やかに。
「よろしく、新田くん」、と。
(了)
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